今日は萩旅行記に戻って萩城跡をご紹介します。 毛利輝元は関ヶ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ出され、結果徳川方に敗れたため、 広島城を追い出されこの萩城を築城しました。1614年に着手し4年後に完成。 天守閣など建物自体は明治16年(1873年)に政府払い下げ令が下り、 翌年に解体されたため、今は残っていません。 現在は、指月公園として広く公開されています。
石垣の上から萩城跡(指月公園)の入口方向を望む。
当時の写真ですが、天守閣が残っていたらどんなに素晴らしかったことか 悔やまれます
萩城祉碑 大正8年(1919年)公爵毛利元昭によって建てられたもの。
萩城址碑
この石碑は、大正8年(1919)11月、公爵毛利元昭によって建てられ、萩城の来歴を記したもので、子爵杉孫七郎の撰文、高島張輔(日本画家高島北海の実兄)の書である。萩城は毛利輝元によって築城され、慶長9年(1604)に工事に着手し、4年後の慶長13年に完成した。以後260年間、萩藩主の居城として、また周防・長門両国の藩政の中枢機関として偉容を誇った。しかし、第13代藩主敬親の代に至り、幕末の多端な国事の処理に不便なため、文久3年(1863)4月、藩府を山口に移した。その後、藩主の居館、諸役所などが漸次取り除かれついに明治6年(1873)には政府から萩城払い下げ令が下り、翌年天守閣、矢倉などすべてが解体された。